防人の歌

八月になるといろいろと考えさせられる。それはやはり先の大戦についてである。私事で恐縮だが、小生の研究分野はこの「先の大戦」に含まれるので、四六時中、この「大戦」については考えているのだが、やはりこの季節は考えるというよりも考えさせられるといった感覚が強い。それはやはり日本人が共有している「空気」によるものであろうか。

さて、八月十五日は「敗戦」の日である。それゆえ(?)、その日は「終戦記念日」といって戦没者を追悼する日となっているわけだが、勇猛果敢に戦って散った英霊たちは「敗戦」の日に殊更に「追悼」されることを果たして喜んでいるのだろうか。

この疑問は、英霊たちの遺書や遺詠を目にするたびにわいてくるのである。日本の将兵たちはただひたすら「勝利」のみを信じて、その若い命を散らしたのである。その御霊を慰むる行事を「敗戦」の日に、国をあげて行うことに、正直違和感を感じないでもない。英霊の残した遺書や遺詠に真摯に向き合うならば尚更に。

古来、公の為に命を捨てることを生き甲斐とする武人は、その命の尽きるとき、この世に「歌」を残すことを好んだ。命と引き換えに、その歌は永遠に語り継がれ、その生きた証は世に残る。この伝統は既に万葉集の時代に「防人の歌」として確立されていた。

防人とは、白村江の戦いに破れた後、日本の防備を固める為に全国から北九州、博多に送られた兵士たちのことである。当時、日本の外交、防衛を担当していたのは大伴氏という大氏族であった。この氏族は天孫降臨のときにニニギノ命(天皇家)に付き従ってきた武門の名門である。しかし、そんな大伴氏も藤原氏に敗れ、次第にその地位を追われてゆく。ちょうどその凋落の時、大伴氏を率いたのが大伴家持であった。家持の父は大伴旅人という人で、太宰の帥(そち)つまり太宰府の長官であり、同時に大歌人でもあった。旅人の歌は万葉集に多く残っている。同じ頃、山上憶良は筑紫国の国司として北九州に赴任しており、二人は歌を詠みあったという。

大伴家持は太宰の帥に就くことはできなかったが、大伴氏の長として万葉集を編纂し、防人の歌を多く残した。彼の「自負」と「志」がそうさせたのだろう。家持の詠んだ「海ゆかば」という歌は、この大伴氏の「自負」と「志」を知った上で読まないとよく理解できないだろう。折角なので、その長歌の全文を文章の最後に記しておきたい。先の大戦中、この長歌の「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見はせじ」という句に音楽がつけられ、国民的愛唱歌として広く唄われた。これを唄って送り出された将兵も、送り出した家族も、かつては大伴氏が持ち、今では国民全てが共有する、この強烈な「自負」と「志」をその歌声に込めていたはずである。

日本軍将兵の遺詠を読むと、その中でこの「自負」と「志」が丈高く歌いあげられているのがわかる。そこには上手いとか下手とかいうものを超越した、ある種の「力」が備わっている。そして、階級の低い兵士ほど、この「力」が強いように思われる。言い換えれば、先の大戦を指導した将官が残した歌というものは、数自体が少ないが、歌としてもあまり心に響かぬものがほとんどだ。なぜだろうか。

『情報社会のテロと祭祀』の中で、倉前はあることを指摘している。それは、満州事変から第二次大戦にかけての日本の指導者たちには教養が決定的にかけているということである。当時の日本のエリートたちは、政治家ならば帝国大学、軍人ならば陸軍士官学校、陸軍大学、海軍兵学校、海軍大学をでた頭脳明晰な人ばかりだが、彼らが学んだものは法律運用技術や軍事・戦闘技術であり、哲学や歴史、文学などの基本的な教養がほとんど身についていなかったという。これは、教養の塊である欧米のエリート層とは実に対照的である。倉前はこう述べている。「詩も歴史も哲学も理解し得ず、狭い視野しか持たぬ政治家や軍人が、おのれの政策の貧困さや、戦略の稚拙さを補足するために、秘密警察や謀略機関のたすけを借りて、無理に事を進めようとこころみる時、必ず重大な失敗や悪例を残す」(『情報社会のテロと祭祀』108頁)

今も昔も歌の一首も詠めぬような政治家や軍人にはご退場願った方がよい、という気持ちにもなるが、大伴氏の昔から「自負」や「志」を持つものほど早く命を散らし栄華を知らぬのが世の常である。やはり「志」と「滅び」が結びつくわが国では、「権力」に「教養」は無理というものかもしれない。

せめてわれわれ庶民は、英霊の歌に真心で応えたいものである。こう思う時、「敗戦の日」の追悼に些か迷いが生じるのである。

『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」
葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る みつき宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして 武士の 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの聞けば貴み 

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