立秋も過ぎ、ちらほら虫の声が涼しい頃である。
虫の声を聞くたびに思うことがある。それは、同じ虫の声でもなぜ京都の虫の声はあんなに美しいのだろうか、ということである。
これは京都の人に聞いてみてもわかるはずがなく、「へぇ、そうなん?」と言われておしまいである。しかし、関東出身の小生から言わせてもらえば、明らかに京都の虫の声は品が良く、音色が美しいのである。「そんなわけあるかい」とお思いの方には是非とも聞き比べていただきたい。
小生にもその理由がさっぱりわからず、「流石は京の都だな、虫まで風流ときてる」などと思いつつ虫の声を楽しむだけで満足であった。しかし、その答えがついに見つかったように思う。
答えは倉前の著作『悪の情報地政学』の中にあった。簡単に説明するとこうである。日本語という言語は奈良、京都を中心に発達したものであり、奈良、京都の人たちの音韻感覚は当然、奈良、京都の虫の声を聞き、それを美しいと思いながら発達したきたものであるから、「日本語を話す人、つまり日本語的な音韻構造を母国語としてもつ人々は、奈良や京都の虫の音を最も美しいと感じる音韻構造を大脳皮質の音感として持つようになっている」(『悪の情報地政学』131頁)
なるほどなと思う。日本人の音韻構造に組み込まれているのは、京都の虫の声であり、東国の虫の声ではないのなら仕方ない。
ところで、この虫の声を「声」として風流に聞こえるのは日本人とポリネシアの人々しかいないそうだ。言語が母音を基本とした構造になっていることが大きく影響しているらしい。したがって、西欧人にとって虫の声はただの雑音にしか聞こえないという。この辺のことは倉前の『艶の発想』にも詳しく書かれているが、この説は角田信忠博士の説に基づいている。
以前『沈黙』という遠藤周作の小説を基に作られた外国映画を観たが、その時ふと感じたことがある。映画の冒頭、虫の声が鳴り響くのだが、それがどうにも耳障りでならなかった。全く風流でないのだ。まさしく、雑音であった。その時、やはり欧米人には虫の「声」は聞こえていないらしいと感じた次第である。
最後に、東男として言っておきたいことがある。みんみん蝉の声なら、西国より東国のほうが断然上だぜぇ。京都のみんみん蝉はどうもいけねぇ。数も迫力も足りねえのさ。(東国にあのクマゼミはいないけれども・・・)
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