前回の投稿で、ソ連のスパイの話を書いたが、一般の人々にはまるで映画や小説の世界の話で、本当にスパイなんかいるのかと疑問に思う方も多いと思う。
そこで、今回は倉前と友人関係にあった元ソ連スパイについてお話ししようと思う。
その元ソ連スパイの名は、志位正二(しい まさつぐ)という。志位氏は元日本陸軍参謀の少佐であった。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学を出た、エリート中のエリートともいうべき軍人だった。父は志位正人陸軍中将である。
関東軍の情報参謀として終戦を迎えた志位正二少佐はソ連に捕らえられ、シベリア抑留を経験する。そこで共産革命のための特殊工作員としての訓練を受けたという。そして、復員後はGHQや外務省で働きながらKGBのスパイとして活動していた。
しかし、昭和29年1月末、在日ソ連代表部の二等書記官ユーリ・ラストボロフがアメリカに亡命するという事件により、志位氏をはじめとする、日本で活動するソ連のスパイたちの存在が明らかになってしまった。そして、ソ連からは「自殺」の指示が届いた。だが、志位氏はそれを拒否し日本の警察に出頭したのである。事件後、志位氏は「石井」という変名で活動を始めた。今度は日本のために。しかし、昭和48年、シベリア上空の日航機内で変死をとげた。
これは作り話でなく、実際に起き、公になっている事実である。ソ連は実際に政治家、官僚、記者たちをスパイに仕立てて使っていたのである。ラストボロフ事件で明らかになったスパイたちの中にはNHKの幹部もいたという。大マスコミほど旧・現共産圏に甘いのは当然といえば当然なのかもしれない。
以下は『悪のマインド・コントロール』から抜粋した、倉前の文章である。友人であった志位正二氏の変死について振り返っている。倉前が元ソ連スパイと友人だったというと意外な感じがしないでもないが、ソ連を裏切った後の志位氏はやはり誠実に日本のために働いていたのであろう。彼の変死がそれを裏付けてはいないだろうか。
<抜粋>
志位正二氏といえば、シベリアのチュメニ油田の開発への尽力と、それに続く怪死事件とを思い出さずにはいられない。
志位氏は、ラストボロフ事件に関係したあと、石井という仮名を使い、シベリアのチュメニ油田の開発などに取り組んでおり、その進渉状況などをよく筆者にも教えてくれたものである。志位氏は、「いま、こういう話が進んでいます」といった形で、「イルクーツク・ナホトカ間にパイプラインを引き、極東へ輸送される八千万トンの原油のうち、四千万トンは日本へ輸入する」とか、パイプラインの太さやパイプの内と外の温度差についてまで、事細かに語ってくれたものである。
時には、「ロシア人は、ウソばかり言うから信用がおけない。日本側関係者は不信感でいっぱいです」と不満をのぞかせたこともあった。だが、最後に電話してきた時の志位氏は、「大丈夫、今度だけは何とかまとまりますよ」と自信たっぷりだった。
志位氏の急死が知らされたのは、その翌日である。瞬間、「あっ、殺られたな」という思いがよぎり、前日、電話を切りしなに、「倉前さん、体を大事にしてくださいよ」と言った志位氏の声が、虫の知らせとしてまざまざとよみがえってきたのである。
異変が起きたのは昭和四十八年三月三十一日正午過ぎで、ハバロフスク上空を飛行中のモスクワ経由パリ行き日航機の機内だった。アメリカのCIAが手を下したのか、ソ連のKGBか、あるいは GRU(赤軍参謀本部情報総局)なのか、いまとなっては真相は藪の中である。
しかし、志位氏の急死により、チュメニ油田開発に関する日ソ間の経済協力の調印はご破算になった。日本資本による開発に反対していた陣営は、明らかに目的を達成したことになる。暗殺者は、二十時間後に効きはじめるようなタイプの毒物をなんらかの形で前日、志位氏に服用させたに違いないのである。
思えば、志位氏の年賀状は毎年、「石井」姓で書かれていた。それが、亡くなった四十八年に限って、本名の「志位」と明記されていた。ラストボロフ事件についての執行猶予期間が明けて、いよいよ本名で活動することになったのかと喜んでいた矢先の急死であった。痛ましくてならない。
(『悪のマインド・コントロール』第一章第三節より抜粋)
最後に、蛇足ではあるが、この志位正二氏には志位明義氏という弟がおり、この人は日本共産党の政治家となった。そして、その明義氏の子息が現在の日本共産党委員長の志位和夫氏である。なんという一族であろうか。
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