今回は、若き青年倉前が詠んだ歌をご紹介したい。倉前がどんな心でこれらの歌を詠んだか、お読みいただければ説明は不要のことと思う。
酒に溺るる歌 三十四首 倉前盛通
敗戦後、三年、世相きびしいさ中、一年半ばかり霧島山の麓で自炊しながら高校の教員をしていた事がある。乏しい食糧事情の中で、独身者の自炊は苦痛であった。しかし、密造のイモ焼酎を飲むことで心の鬱屈をはらしていた。その当時、敗戦の悲しみにどうにも耐えられず悶々としていた。丁度、二十六、七才位の頃であった。その頃の歌を久しぶりに整理してみたのが、以下三十四首の歌である。
水をくみ飯(いひ)を炊きつつ朝夕のこのさぶしさを如何にわがせむ
二年の日月めぐりて国民(くにたみ)はさが無き民となりにけるかも
男の子わが飯をかしぐと夕星(ゆふづつ)のさぶしき宵を大根(おほね)洗ふも
みいくさに死にたる友の面影に立つ宵ごとに芋(うも)を煮るかも
しかすがに生き永らへてかくのごと飯かしぐ身を恥づる日多し
宵闇のほの迫りたる部屋内(ぬち)にともしき夕げひとり食(を)すなり
宵月のほの照る下に食ひさしの皿をぞ洗ふ手弱女(たわやめ)のごと
みんなみの国の果たてにわがをれば北斗の星も見えぬ夜ぞ多き
この歎き誰にか告げむ多よその世の悲しみは人に云はねども
白刃なす劔の如く朝にけに立つ霜柱見ればさぶしも
霧島の山ひだ白く冴ゆるなりみやまも霜の深く降るらし
天ざかる鄙にはあれど日毎日毎霧島おろし聞きてつつしむ
窓の外(と)にみやまおろしをきく夜は密造の酒をくめどさぶしも
きりしまの山の斜面(なぞへ)に降る雪のとけたる水かこのうま酒は
慷慨の酒にはあらずさむざむと霜夜にひとりくむ酒ぞこれ
鉄びんの湯鳴りしじまにひびく夜を端座してくむ天(あめ)のつゆ酒
いにしへの旅人(たびと)の大人(うし)も鄙ざかる筑紫にありて酒に溺れき
水莖の水城(みづき)の上に涙せるますらを旅人思ほゆるかも
さにづらふ筑紫の児島振る袖をかへりみしつつ詠みし歌あはれ
大伴の御祖(みおや)の劔ふるふべき時到らずて朽ち果てにけり
猿にかも似たる輩のはびこりて衰ふる御世の憤ほろしも
筑紫辺に狂愚(たふれ)男の子の多くゐて酒にくるふを見そなはせ神
足引の山の秀穂(ほつほ)にます神に行く道問はむ酔ひ人われは
とどろ鳴る山川の瀬に立つ霧のかをるが如しこの酒の香は
見はるかす山の斜面(なぞへ)に立つ霧を盃の上に見つつ悲しも
立つ霧のやがて消ゆべきうつし身の遂にゆくべき道を思ふも
酒に酔ひて世をすぐすともさかしらに世を渡るべきことは思はじ
屋根を吹く風しづまりぬしんしんと霜降るらしも夜の更(くだ)ちを
酒星といにしへ人も名づけたる赤き星さへ見えぬこの頃
尿(いばり)すと外に出づれば降るごとき星空寒く冴えまさるなり
久方の天を渡らふ星のごと夜々にゆらぎて絶えぬ悲しみ
怒りすらさびしくなりぬいざやいざ枕を寄せてわがひとり寝む
山の辺の一本(ひともと)菅のひとりのみ歎きてゐねむこの寒き夜を
(昭和二十二年暮)
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