現在『情報社会のテロと祭祀』の復刊を進めており、間もなく、完了する予定である。その中に、なぜ倉前が「支那」「シナ」という呼称を用いるのか説明している一節があり、これは今日でもとても重要な問題であるので、ここに抜粋し皆様のお目にかけたい。
<抜粋>
私が中国という名称を余り使用せず、昔から日本人が使っていたシナという呼び方を多くの場合に使用しているのは、決して卑しめて言っているのではなく、歴史的にみて、この呼び方が由緒あるものであり、今更急に変える必要はないと信じているからである。長澤規矩也著『大明解漢和辞典』(三省堂)にも、「支那」の項で「明代にシナ人みずからも漢民族著作を支那選述と明記している」と述べてある。つまり、シナ人自身が「支那」「至那」「脂那」などと自称していたのであるから、私も遠慮せずに使うつもりでいる。『宋史天竺伝』にも「天竺表来、訳曰、伏願支那皇帝、福寿円満」、また『慈恩伝』にも「三蔵至印土、王問、支那国何若」、また『華厳音義』にも「震旦国或曰支那、亦曰真丹、即今此漢国是也」など資料は多い。引用した資料は、仏教哲学を専攻している小川宏氏から御教示をうけたものである。
戦後、シナ(支那)と呼ぶことはタブーとされ、何か悪いことのように宣伝されてきたが、これほどナンセンスなことはない。アメリカと呼ぼうと米国と呼ぼうと、イギリスと言おうと英国と言おうと、その時の文脈や気分で自由に使ってよいように、その時の文章の表現上、支那と呼ぼうと中国と呼ぼうと、我々日本人の自由である。もし、シナの権力者が、日本のマスコミ人に命令して、「使うな」と言っているとすれば、許し難い「言論の自由、表現の自由への侵害」である。最近(一九七七年)も、ある雑誌の記者が、「シナと書くとクビになりますので、中国と変えて下さい」と筆者に頼んだ例がある。国連には「チャイナ」の国名で加入しておりながら、日本人には「シナ」と呼ぶなとは、本物のシナ人は言わないであろう。言う者は、大むね思い上ったつまらぬ輩である。むしろ、卑屈な日本人が過剰忠誠心を示したつもりで、自主規制しているのであろう。私は今後とも、シナ、支那、中国、漢土、もろこし、など時に応じて自由に使うつもりである。(『情報社会のテロと祭祀』195-6頁)
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