情報社会のテロと祭祀

『情報社会のテロと祭祀』 倉前盛通 著

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『情報社会のテロと祭祀』は昭和53年(1978年)3月に刊行された。『悪の論理』の刊行が昭和52年10月であるから、倉前はこの二つをほぼ同時に執筆していたことになる。しかし、本書の知名度は『悪の論理』のそれには遠く及ばない。それはなぜか。

それは、世界の動きを「地政学」で説明することの方が、目に見えて、わかりやすかったからであろう。「地政学」は決して難しい学問ではなく、誰にでもわかる国家のサバイバル術の「仮説群」に過ぎず、為政者たちも同じ仮説に基づいて政策を決めているのだから、世界はその通りに動くことになるだけのことである。

しかし、同じ地政学を身につけても、情報を受け取る側の認識の仕方や思考パターンが違えば、自ずと、その為政者、国家、民族の振る舞いに差が出てくるであろう。それが、民族の個性、即ち、文化、文明というものである。

したがって、世界の動きを追うのに地政学だけでは不十分であり、文明論の要素も当然必要となる。サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』は国際政治を文明論を基にしてわかりやすく説明した名著である。だが、「文明の衝突」も90年代に入ってようやく日の目を見たのであり、それまでは、同じ思考をする合理的な国家群が国際システムを形成し、「生存」や「国益」を巡ってパワーゲームを行っている、という見方が国際政治学の圧倒的な主流派であった。「地政学」はこのパワーゲームで用いられる定理のようなものなのである。

ここに、倉前が本書を世に送り出した理由があるように思われる。

つまり、倉前は『悪の論理』を世に出すことによって「地政学」という日本が戦後失ったパワーゲームの「虎の巻」を取り戻そうとしたが、やはりそれだけでは世界の動きを掴むには不十分と考え、『情報社会のテロと祭祀』を送り出すことにより、文明論に基づいた世界の見方を提示しようと考えたのではないだろうか。世界の動きを掴みたいのであれば、「地政学」と「文明論」を車の両輪のように備えておかねばならないと。

本書、『情報社会のテロと祭祀』では倉前独自の世界観に基づき、文明論が展開されてゆく。例えば、表音文字を用いる文明と表意文字を用いる文明との間で、認識や行動にどのような相違が生じ、その両方ともを用いる日本にはどう関係するのか。また、同じ漢字を用いているにもかかわらず日本と中国がお互い分かり合えないのは、何故か。ソ連の科学的進歩が、アメリカのそれに決定的な遅れをとった要因とは何か。いずれも、その根底には思想と言語が介在しており、倉前はそれを分かりやすく本書の中で解説している。

本書のタイトルに「情報化社会」という言葉が入っているように、倉前はコンピューターの発展と普及が社会に大変革をもたらすと予測し、それに適応できるか否かが生き残るための鍵であると指摘する。そして、それへの適応を拒否する者によるテロも覚悟せねばならない時代になると警鐘を鳴らす。不幸にも、21世紀はテロの世紀として幕を開け、凄まじい情報の洪水が人間社会を飲み込みつつあるように見受けられる。われわれは、まだ、この新しい世界に適応するための社会管理システムを完全に手に入れていないようだ。

ともかくも、コンピューターの人工知能や音声認識技術の登場、それに伴う社会管理システムの大革命を、倉前は今から40年前に既に予見していたのだが、その頭の中には一体どんな世界が描かれていたのだろうか。興味は尽きない。

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