鬼頭中将と三島由紀夫

先日、「防人の歌」の頁を書きながら、ふと思ったことがある。

歌を詠むのが上手な日本軍の将軍に誰がいたろうか。

山縣有朋は結構な風流人で、歌も嗜んだそうだが・・・。
大山巌も日清戦争が終わり彼の地を後にする時、桜の木を植えて歌を残している。
東郷平八郎の歌は、潔く、いかにも強運の持ち主といった感じだ。
乃木希典の辞世は軍人というよりも忠臣としての心か。

などと考えていたら、ふと鬼頭中将の名前が浮かんだ。

鬼頭謙輔中将。この将軍は歌人として名高い。が、実は、実在の人物ではない。三島由紀夫の小説『奔馬』に登場する架空の軍人歌人である。しかし、なぜ三島由紀夫はこのような人物を『奔馬』に登場させたのだろうか。

つれづれに思ったことを書いてみたい。『奔馬』を読んだのはもうだいぶ前のことだが、今、改めて考えてみると、当時は見えなかったことが見えてきた。小生の勝手な想像だけれども・・・。

まず、鬼頭中将の名前、謙輔についてだが、これは藤原兼輔からとったのではないか。藤原兼輔といえば三十六歌仙の一人に数えられるほどの歌人で、紫式部の祖父としても知られる。その邸宅が京都鴨川の堤にあったことから、堤中納言と呼ばれ、そこで文化サロンを形成していた。平安時代の物語集に『堤中納言物語』というのがあるくらいのビッグネームだ。しかし、堤中納言こと藤原兼輔はこの物語集には登場しない。なんとも不可思議な・・・。藤原兼輔が平安の文学で重きをなす人物に変わりはないが・・・。

つまり、鬼頭中将は三島の王朝文学への憧憬を表しているのではないか。

しかし、『奔馬』の主人公、飯沼勲は王朝文学からはかけ離れた存在といってよい。志のために人の命をとることも辞さぬ「益荒男」が飯沼勲だ。この飯沼と、もう一人の主人公、本多繁邦が初めて出会うところが実に象徴的だ。二人は現在の奈良県桜井市三輪にある大神神社で出会う。三輪山が御神体のこの神社は日本で最も古く、大物主神を祀っている。

つまり、飯沼は、肇国の純粋でいまだ荒々しい大和の精神を象徴している。

飯沼勲は志を遂げて果てるのであるが、しかし、それは危うく失敗するところであった。いや、もうほとんど失敗といってもよいのかもしれない。そして、その失敗をもたらしたのが、飯沼の恋人、鬼頭槇子であった。才色兼備の槇子は、あの鬼頭中将の娘で、中将の歌才も受け継いでいる。雅で甘美な王朝文化の香りが、若く逞しい青年の志を惑わせたとも言えようか。しかし、最後に青年は純粋さを取り戻す。その命と引き換えに。

実は、三島は戦後、この桜井を訪れたことがある。まだ若く、学生服を着ていたという。すでに文学の才能を世に認められた若き三島が桜井に訪ねた人とは、最後の国学者ともいわれる保田與重郎であった。先祖代々桜井の地に住む保田は、まさに肇国の精神の継承者である。三島が『奔馬』の出会いの場を桜井の大神神社に設定したのは、やはり、保田の懐からこの物語を始めたかったからではなかろうか。

後年、保田は「三島は枯れたらええ物書きになるで、藤原定家に匹敵する物書きに・・・」といったという。

三島が、軍人であり歌人でもある鬼頭中将に託したものとは、もしかしたら自身の将来ではなかろうか。決して見ることのない、自分の理想の姿を。

今、美しい歌を詠む軍人がいたことを思い出した。

九平次拝

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