歌はただ よみあげもし詠じもしたるに 何となく艶にもあはれにも聞ゆる事のあるなるべし
これは藤原俊成の言葉である。俊成卿は藤原定家の父君で、千載和歌集の編者であり、平安末期、鎌倉初期を代表する歌人だ。五条の三位と呼ばれ、その屋敷内にあった社「新玉津島神社」は今も京都の松原通にあり歌人が崇敬する神社である。平家物語にある平忠度と俊成卿のエピソードはわが文学史に残る金字塔の一つであろう。都から落ちた平家の忠度は、単身騎馬で都に引き返し、五条の俊成卿の屋敷の門を叩く。忠度は俊成卿に自分の歌を記した巻物を手渡し、勅撰集を編ずる折は何卒わが歌もと言って立ち去る。俊成は後に勅撰集である千載集を編纂したが、詠み人知らずの歌として、平忠度の歌を一首、それに加えたのである。
以来、日本の文学者の中で、否、庶民にとって、俊成卿は英雄となった。今もその屋敷跡は俊成町という名を留める。
ここまで言いながら、今日の話題は俊成卿の話題ではない。忍者ハットリ君なら、ズコー、と言って転げているかもしれぬ。
今日、話したいこととは、俊成卿が説いたところの「艶」である。この「艶」は歌を作る上で欠かせないのである。俊成卿の少し後の世代で、この「艶」を詠みあげる女流歌人が二人あった。式子内親王と俊成女(むすめ)である。このお二人は新古今集の時代で艶なる歌の双璧であった。彼女たちの詠む歌は決して男たちには真似のできないものであった。
いつしか彼女たちの詠みぶりは小生の憧れとなった。男の私には決して詠めぬその詠みぶりは。
私は京都の下鴨神社を訪ふたびに、式子内親王のことを想う。以前、思い余って、御社の近くに移り住んだ。あの日の夏の夜の匂ひは今でも忘れない。
今夏、久しぶりに下鴨の朱色の楼門を潜り、やはりそこは「艶」なるかなと思った。実際に下鴨神社を訪れた方にはお判りのことであろう。それはどんな小説家も評論家も言葉で説明できぬ感覚なのである。ちなみに、ここは縁結びの社としても知られ、若い女性が全国から集まる。そこに漂う空気は、やはり「艶」と呼ぶべきものであろう。
日本の神様はもともと恋愛に関しては寛容というか、むしろ応援してくれる側である。つまり「艶」は神様に通じるのである。この「艶」つまり「色っぽさ」が歌を詠む上でとても重要な要素となる。そして、恋の歌は男女を結びつけ、子孫繁栄をみちびく。
一つエピソードをご紹介しよう。
かの紫式部の弟は、下鴨神社の斎院に仕えるある女性と恋仲になり、夜な夜な下鴨の斎院に通っていた。しかし、ある夜、警護のものに捕まってしまった。斎院は神聖な場所、男子禁制であり、それを破れば重罪である。この時、紫式部の弟はとっさに歌を詠んだ。その結果、放免となった。警護の者が歌に共感したのだ。それほどの歌を詠んだ男を褒めるべきか、その歌に動かされた警護の者を褒めるべきか。いずれにせよ、下鴨の神様はこの「艶」を咎めはしまい。
倉前は昔『艶の発想』という本を書いた。やはり、歌人として「艶」について何か書かずには居られなかったのであろう。「悪」より「艶」の方がよほど倉前の本性を言い表していると思うのだが。
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